昭和五十六年十月二十日 朝の御理解
御理解第八十八節
「昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは顔をきれいにする許ではない心に辛い悲しいと思ふ時鏡を立て悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよと云ふ事である 」
昨日の鳳仙花。鳳仙花という事を頂いたんですけれど、どうでも一つ鳳仙花の花が咲き、それがこう繁昌していく、だんだん増えていくようなおかげを頂いてもらいたい。八十八節、もう広がりに広がっていく、それにはどうしても神が心がいわゆるイべんに山。鳳仙の仙という字。人間ですけれども、その人間が生神を目指すというかねそういう精進を本気でなさなければならない。大祭からずうっとこう昨日一昨日までは体が大変きつく、きつかった。立つのにもこう骨が折れてるようにきつかった。手を上げるともおっくうなような感じの体のきつさでしたが、昨日は朝の御祈念を鏡に非常にあのう力がこう湧いて来たようなきつさを全然昨日はかんじませんでした。ですから、お食事もおいしい、お風呂も頂きましたが、そんならそのきつうてもう足が上がらんようにもうそれこそ心の底から何かそうきつさを感じる時でないと頂けない喜びが湧いてくる人です。大祭なんかもそういうきついけれどもこう湧いてくるその喜びであの御大祭が仕えられたと、神様が云うて下さるようなおかがを頂いておる。そして昨日のように、こっつもうどうもない者のような感じであのう、きつさを感じない。今朝もやっぱりおかげで元気で、だからその元気であり、健康である、健康かどうかわからないけれどもまあ、元気であるというその事が、又有難い。もうどんなにきつかっても有難い、きつなかってもなお、有難い。私はそういう世界だと思うです、金光大神の世界というのは、ね、その為にはね、あのう、どうしてこんなに有難いのだらうかと、私はこの思わせて頂いておったら、夕べ私はもう一時間に一回くらいやすんどっても、あのう小用に立ちます。もう眠むたいわけですね。夜目が痛いようにあるんですけれども、小用に行ってまあやすましてもらっておると、あのう便所の電気を消し忘れたごたると思うて、又立ち上がって行って電気を消して又休ませて頂いた。そん時の事を頂くんです、只今の御祈念中に、まあ甘木の初代なんかは、それこそ神様の御用としての頂き方というか、枯れ葉枯れ枝一枚一本でもお粗末になされなかったという。いわゆる神様の御物としての頂き方。ねここではまあ御事柄ところいうふうに申しますが事柄の一つ一つが御物の一つ一つがです。そのようなたとえていうなら、眠むとってから、眠てから、あっ、便所の電気を消し忘れとったごたったと思うて、それをなら放伝しとっても大して誰がどうと云う事はないのだけれども、私の良心が許さない。これはね電気だけの事じゃないです。もう結局心一つで総てを創るといわれ、おかげは我賀心にあるというその心一つとか、我賀心を目指させて頂く者は、この心一つに取り組まなければ駄目です。ねそれこそ鏡を立てて見てね、悪い顔を見せてはならない。ね心にどんなにつらい苦しいとおもうてもね、まあ云うならば笑顔を絶やすなと、そして家を治めよというふうに今日の御理解にあるんですけれども、私共の心次第というものがね、例えばどのような場合であっても、なら昨日、一昨日までの体のきつさの中にあっても、その云うなら、だから御用を御無礼しようという心もおこらないし、なら修行の心です。こりゃあもう限りないどうでもという修行の精神です。同時に、そこからしか頂けない喜びに浸る事が出来るかというと、なら昨日一日のように健康な、本来から云うと今日は二十日ですから、菊栄会の方逹が信心実習という、まあ私を中心にしてどうか一泊泊まり位で温泉とかいろんな所を廻わる事になっとりましたけれども、丁度月次祭の晩にその事に相談にみえましたから、とてもこげんきつかなら、とてもよそへ歩きはでけんばいちと云うてまあことわっとりましたが、ことわらんでんよかったと思う位ですけれどもそんなに今日は元気です。ですからね、きつかっても有難い。なら*復しても有難い。なお有難いというよりもきつい時でなければ頂けないこう有難いというものがある。そういう心がどういう所から頂けるかと云うとなら心一つを大切にしておるからなんだと云う事です。例えはなら心一つという事は、なら神様の御物である物を心の底から大切にする。ね小さい電気を消し忘れた。もう眠むしてこたえんのだからもうよかよかでもいいけれどもそれを私の心は許さない。これは自分の心をのぞいて見て、はあこういう事ではおかげが受けられんと云うのと、ねこの心の状態であれば絶対おかげは、おかげが受けられるという自信と二つあるんです。自分の心次第です。自分がおかげ頂けんはずがないと、心一つに本気で取り組んでおかなければね、私はその頂けないわざわざ鏡を見て心じゃ苦しいけれども顔でにこにこしとると云ったようなものじゃない。そういう事であるなら、ある時ほど元気が湧くとか有難いとかと云う心一つの所を、ね私は今日又あらためて、はあ、いかにほんなら御事柄と云うかね、御物というかその大切にするという事は、いよいよ自分の心一つを見極めていく事にもなるのです。まあ、この位の事はよかよかではなくて、よかよかとも思わん位に平気で居るといったような事はないでしょうか。もう金光様の信心は、どこまでも心次第です。自分の中に云うならばね、横着な心とか、ずるい心とか、汚い心とかさまざまね、だからそういう心に取り組んで心一つを大切にする。そりゃあ些細な事柄も、事柄であっても御物であってもね、それを神様を中心にした頂き方から心がいよいよ大切にされてくる。そういう修行をしよらんとですね、今日私が昨日今日感ずるような昨日体がきついという時感じる元、又こうして元気であるという事を有難いと思う事、どちらに転んでもだから有難いという事、そういう心というものはいよいよもって心一つに取り組ませて頂かなければいかない。ね、丸いてまりに喜びという字を書いてこう転がした。どちらに転んでも喜びという字しか出てこないというような心を目指すという事は、結局心を大切にしなければならないと、そういう信心が私は土台となって鳳仙花のおかげともなり、ね生神を目指すという事はそういう精進だと、そういう心の状態が開けてくる。そういう心に本気で取り組んでおるならばです、自分は絶対おかげが頂けるいう確信がこれに生まれてくるです。どんなきつい思い、あ、又おかげで修行さしてもらいますといったような心が湧いてくるのです。いうなら八十八節でね、広がりに広がるおかげの根本という所は結局心一つにどの位な意欲を燃やして取り組んでおるかという事になる野じゃないのでしょうかね。
どうぞ